常識は疑え

公の面前で大げさに吐露することにしました。

アイルトン・セナとホンダとエイドリアン・ニューウェイ 27年間を繋いだ物

今年もあの日がやって来た。GWの中にあるものの、どこか悲しくなる5月1日。アイルトン・セナの命日である。

あの年、1994年のサンマリノGPは異様な雰囲気だったと誰もが口を揃えて言っている。金曜日(4/29)にはセナと同郷のルーベンス・バリチェロが大クラッシュし、鼻の骨を折る骨折。土曜日(4/30)には、新興チームのシムテックのドライバーで、セナの友人でもあったローランド・ラッツェンバーガーが脱落したフロントウイングにタイヤが挟まり、制御不能のまま高速域でクラッシュし、そのまま還らぬ人となった。日頃からモータースポーツの安全性に最も高い関心を示し、仲間がクラッシュした時には、マシンをその場に止めて救出に向かうような人であるセナは、身近な人を襲う不幸に、酷く心を痛めたことは想像に難くない。


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一方、その同時期、セナが乗るマシンであるウィリアムズFW16のチーフデザイナーを務めていたエイドリアン・ニューウェイも大きなストレスを抱えていた。自分のデザインしたマシンが速く走らないのだ。あのセナを持ってしても。

1992、1993年とニューウェイがデザインしたウィリアムズのF1マシンは地上とフロアの空間を、先進技術であるアクティブサスペンションが、加減速でマシンが必要以上に沈み込んでフロアの空間が理想的な状態から外れてしまうことを制御することで、安定して高いダウンフォースを叩き出し、2年連続でコンストラクター、ドライバーズチャンピオンに輝いた。しかし、アクティブサスペンションによって、速度レンジが高くなり、死亡事故を誘発してしまうのではないかと危惧したFIA国際自動車連盟)は規則によって、1994年からアクティブサスペンションを禁止したのだ。それでも、上手くいっている時はコンセプトを大きく変更しないニューウェイは、アクティブサスペンションの恩恵を低く見積り過ぎて、大きく手を加えなかった。このニューウェイがデザインしたFW16に1994年から新しく乗るドライバーが、前年までマクラーレンチームに所属したアイルトン・セナであった。セナはマクラーレンとホンダエンジンのパッケージで、1988年、1990年、1991年と3回のワールドチャンピオンに輝いた。しかし、1992年、前述のニューウェイのアクティブサスペンションを搭載した、ウィリアムズFW14Bによって、セナとホンダエンジンは勢いを削がれ、3連覇を逃すばかりか、バブル崩壊の余波で経営状況も悪くなっていたホンダをF1撤退に追い込んだ。

翌1993年、ホンダエンジンを失ったセナは、卓越したドライビングテクニックを武器に、ウィリアムズ勢に一矢報い、5勝を挙げたものの、熟成を遂げたウィリアムズのアクティブサスペンションに成す術はなかった。このままではワールドチャンピオンに返り咲けないことを悟ったセナは、常勝チームとなったウィリアムズへの移籍を決めたのだ。

迎えた1994年、FW16のシェイクダウン、FW16は酷くピーキーなマシンであることを露呈した。パッシブサスペンションに戻ったことで、車高が変化したタイミングでのダウンフォースの損失が顕著となり、セナを持ってしても上手く操ることが出来なかったのだ。

それでも、シーズン開幕してからは、誰よりも感覚に優れていたセナはサンマリノグランプリまで、予選1位であるポールポジションの座を誰にも明け渡さなかった。レースディスタンスである300km全周を最速で走れなくても、1周の速さで競う予選であれば、ツボを押さえて最速に導くことがセナには出来た。それでも決勝になると、刻々と変化する路面状況やタイヤの状況に手を焼いたか、セナは開幕2戦をスピンとクラッシュでリタイヤしていた。このセナがリタイヤした2戦で勝利したのは、ミハエル・シューマッハ。彼もまた皇帝と呼ばれ、この1994年から10年以上トップドライバーとしてF1に君臨するようになる。

場所をサンマリノに戻す。ニューウェイは、自分のデザインしたマシンのピーキーさの原因を発見し、解決方法を導いた。しかし、それが実戦投入されるのは部品を設計、製造するためのタイムラグが生じるため、もう少し後になる。ニューウェイはセナに解決方法と、解決方法が搭載されたBスペックの投入時期を話し、セナに納得してもらった。しかし、マシンはもう一つの問題を抱えていた。ニューウェイは、空力的に最適な形状を導き出すため、コックピットを狭くデザインするデザイナーだった。しかし、ニューウェイはこの年、ウィリアムズに移籍したセナのコックピットの好みを把握しきれていなかった。セナにとってはステアリング位置が高過ぎて操作しづらかったのだ。ニューウェイはセナの要望に応えるために、ステアリングコラムの改修を部下に指示した。それによって、サンマリノではセナの要望に応えたステアリング位置になっていた。しかし、この改修が強度計算を行わず、突貫工事的な改修となっていたことがのちに明らかになる。

予選日の翌日、5月1日の決勝日、悲劇はあったものの、レースは予定通り開催されることとなった。のちの関係者の証言では、この時セナは相当ナーバスになっていたとされ、決勝直前には、お互いをクラッシュに追い込むまで加熱したライバル関係であった、当時の最多勝ドライバーで、前年に引退したアラン・プロストに対し無線で「アラン、君がいなくて寂しいよ」と呼びかけている。


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フォトグラファーの熱田護さんは、自身の写真集で、サンマリノのスタート直前のセナの写真を公開した。セナはいつになく固い表情でコックピットに佇み、前を見ていたそうだ。その後、ふとセナとレンズ越しに目があったが、30秒も視線が合い続けたことで、思わずカメラを下に下ろしたそう。それでも目が会い続け、熱田さんはセナに笑顔を送ると、セナは微笑んでくれた。この時撮られたセナの写真は、セナらしい、逞しく真っ直ぐな目をしており、目の下に刻まれた深いシワは彼の優しさを表しているように思えた。

サンマリノGPはこの日も波乱含みだった。決勝スタート後、ストールして止まっているマシンに、後続から全開で加速するマシンが突っ込んだことにより、観客席まで破片が飛び散り、観客は怪我を負う事態に。この影響で、レースは再スタートへ。1位はセナ、2位はシューマッハ。まだ改修されていないピーキーなマシンでセナは、3連勝を目指すシューマッハに必死で逃げを打つ。迎えた7周目、モニターの映像はシューマッハオンボード映像、シューマッハの視線で捉えられるアイルトン・セナに変わる。セナは高速のタンブレロコーナーを曲がっているが、急に壁に吸い寄せられるようにベクトルが変わる。シューマッハオンボードからフェードアウト。そのままタンブレロの外の壁に減速する間もなくクラッシュ(セナはそれでもコントロールを失った直後の僅かな時間でマシンを大きく減速させていたことが、のちのデータロガーで明らかになっている。)クラッシュ後、一瞬動いた後、動かなくなったブラジルカラーのヘルメット。すぐに救急隊が到着し、ヘリコプターで病院にセナは送られたものの、死亡が確認される。

このセナの死はまさに世界中に衝撃を与えた。当時F1を中継していたフジテレビは、実況を担当していた三宅アナウンサーも解説者の2人もカメラが回っているにも関わらず泣いていた。   


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極東と南米から、遠いヨーロッパに乗りこんで共に戦ったセナとホンダは、日本でも深い共感を呼び、セナはヒーローとして崇められた。(最近では、その当時に生まれた子供の名前がセナである事例も多い。)

セナの母国ブラジルでは、国葬が取り行われ、国民は3日間喪に服した。当時のニュース映像にも自分の事のように取り乱すブラジルの人々が写し出されている。


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一方で、サッカーのブラジル代表は、「共に国民のために4度目の世界王者になろう」と生前のセナに発破をかけられていたことから、奮起して1994年のW杯で、24年振りの優勝を果たすことになる。優勝した後にピッチ上でメンバーが取り出した横断幕「セナ、僕らは君と共に加速してきた。4回目の優勝は僕らと君のものだ」はあまりにも有名だ。

セナのマシンをデザインしたニューウェイは、セナが文字通り命を賭して走る必要のあったピーキーなマシンを設計したことに自責の念を抱いていると自書で明かしている。セナ無き後、FW16を改修して戦える状態に戻したウィリアムズ(ニューウェイ)は、セカンドドライバーのデイモン・ヒルシューマッハを後一歩のところまで追い詰め、コンストラクターズチャンピオンを奪還することに成功した。その後も、ニューウェイの携わるマシンは、1996、1997、1998、1999、2010、2011、2012、2013と8回も世界チャンピオンを獲得する偉業を成し遂げた。しかし、ニューウェイは未だにセナの事故について話す時、声の震えを抑えるのに苦労すると話す。それほどセナは偉大な存在だった。

一方、時は2021年、運命とは面白いと感じる。かつてセナと共闘して好成績を収めたホンダが、2021年でF1を撤退する。今はパワーユニットと呼ばれることの方が多いF1のエンジンだが、紛れもなくパワーユニットもエンジンの1種である。ホンダはこれまでも撤退、復帰を繰り返してきたが、今後は2040年までに市販全車種を電動化させる目標に対応させるために、F1のリソースも含めて全勢力を注いでいくという。おそらく、ホンダエンジンとしては、最後のシーズンとなる。そのホンダエンジンを搭載するレッドブルのマシン設計のディレクターが、エイドリアン・ニューウェイである。


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2015年にかつてのパートナー、マクラーレンとタッグを組んでF1に復帰したホンダだったが、成績は散々で、マクラーレンの首脳、ドライバーからはチーム低迷の元凶とされ、2017年には契約を残したまま切られるという、悪夢のような時間を過ごしてきた。しかしその後、レッドブル傘下のトロロッソに2018年からエンジンを供給することが決まり、そこでしっかりと性能を改善したホンダは、2019年、ニューウェイの所属するレッドブルにもエンジンを供給することになる。レッドブルで2010〜2013年と4連覇を果たしたものの、近年は勝てる体制に無く、ニューウェイもそれを不満に第一線を退いていたのだが、ホンダエンジンの搭載に勝てるチャンスを見出し、第一線に復帰した。2019年にはホンダエンジン復帰後初優勝を含む3勝、2020年も3勝をして、常勝チームであるメルセデスとの差を少しずつ埋めてきた。そして2021年はメルセデスを凌駕する最速のマシンを開発してきた。ニューウェイがタイトルを取れなくなった2014年以降、毎年タイトルを獲得するメルセデスに満を持して勝負を挑む。

もし、今年レッドブル・ホンダがタイトルを獲得できるようなら、それはホンダにとっては1991年のアイルトン・セナ以来となる。つまり、エイドリアン・ニューウェイが優勝請負人として台頭する前まで遡るのだ。アイルトン・セナエイドリアン・ニューウェイとホンダ。2021年は縺れた運命の糸が解きほぐされるのだろうか。


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コーナリング中もスロットルを断続的に開け続けることで次の加速に生かしていたとされる「セナ足」


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ピーキーなFW16を必死で操ってシューマッハを破り岡山で64回目のPPを獲得。

 

maybeは名曲へ引き上げた。初期のノエルギャラガー論

ノエルギャラガーは凄い。

何がというと、普段は口が悪いことで知られているのに、彼にペンとギターを持たせると、繊細かつ素晴らしい曲を作り上げる。

ましてや、ノエルの口の悪さとのギャップが、彼が作り上げる曲に説得力すらもたらしてしまうのでは。とすら思える。

聖人君主が綺麗な曲を作るよりも、ノエルのような人が綺麗な曲を作り上げる方が、心の中に入ってくるのでしょうか。

 ノエルが全曲作詞作曲したOASISのデビューアルバムは英国でも日本でも瞬く間にヒットしました。このアルバムの曲はどれも名曲たりえるものですが、1曲挙げるとしたら、「Live Forever」を推す人も多いと思います。

 この曲は、ギラギラした1stアルバムの中では異質だと思います。1曲目では、「今夜、俺はロックンロールスターだ!」と高らかに歌い上げ、最初にシングルカットした「SUPERSONIC」では、一言目で「俺は俺である必要がある。他の誰でもなく」なんて歌っているのです。あの長渕剛ですら、「とんぼ」では「俺は俺であり続けたい。そう願った」と控えめな表現をしているというのに!

そんな、自信に溢れた曲の中で、「Live Forever」では出だしからMaybe(多分)と歌いだします。

次のアルバム、モーニンググローリー以降、繊細なノエルの曲はもっと増えるのですが、「ロックンロールスター」、「タバコと酒」

と続いて、いきなりMaybeと始まります。

しまいには、Maybe I just wanna fly. Maybe I just wanna breathe. とMaybeを連呼し始めます。さっきまで野望に溢れてちょっと粗暴な感じもあったのに、急にこんな女々しい表現になってしまうなんて、どうなっているんだ!

 Maybeの謎解きをするためにまず、この曲の成り立ちについて触れたいと思います。

Live Forever」は、オアシスがメジャーデビューした1994年に自殺したNirvanaのフロントマンであったカート・コバーンが作った「I hate myself and want to die」へのアンサーソングとして作られた曲です。ノエルギャラガーとカートコバーンは同じ1967年生まれで、左利き、青い目、ビートルズ好きということで、ノエルはカートへの親近感を抱いていた事を後に告白しています。そして、Nirvanaがメジャーデビューしたアルバム「Nevermind」をロックの未来を鳴らした音だと絶賛していました。そんな憧れの男が作った曲が絶望を歌っていることに、ノエルは憤ります。

そして、この曲を作り上げました。ロックは希望に溢れた音を鳴らすべきだという信念が、「Live Forever」を作り上げたのです。

一方で、ノエルは同時に真っ向からカートコバーンを否定する曲にしたくなかったのではないかと推測されます。同い年ながら、圧倒的に成功した正真正銘のロックスターに対して、地方都市マンチェスターの労働者階級から、これからのしあがろうとする無名の男。相手には尊敬、敬愛している部分もある。ノエルはそこでMaybeを使ったのではないでしょうか。

確固たる意思を隠すため、自身のなさや、揺れる心がMaybeに透けて見えます。それがこの曲を、とんでもない理想論から、現実へと引き戻しているのです。

 

初期オアシスはマンチェスターの労働者階級出身ということで、労働者階級のヒーロー的な扱いもされていました。迷いながらも理想を歌い上げる「Live Forever」はまさに彼らのアンセムとなったのでした。この曲からMaybeを取ってしまうと、庶民の心からもかけ離れた場所に存在してしまうでしょう。

 

最後に、時代はノエルとカートコバーンを引き合わせませんでした。現在はオアシスからも離れ、様々な音を吸収して、進化するノエルの姿は、グランジの先の音を探して葛藤していたカートコバーンにも重なるものがあります。もし2人が会っていたら、喧嘩してしまうような気もするし、気が合うような気もするし、見てみたかった。

その一方で、Nirvana時代にドラマーだったデイヴ・グロールOASISの復活の署名を集めようとして、ノエルに悪態を突かれているのは、途切れたものが実は途切れてはいなかったような気持ちにさせてくれてなんだか良いものですよね。

 

流れる季節、流れるリアタイヤ

MOTO GPの話題でも。

今シーズンはヨーロッパ圏内で開催が制限されたり、ロッシをはじめとした有力ライダーが欠場を余儀なくされるなど、暗い話題も多い中、明るい材料としては中上選手の躍進です。

ポールポジションを獲得した前戦のテルエルまでは毎戦トップ10フィニッシュをするなど、大きく躍進を遂げました。マルク・マルケスしか乗りこなせなかった2019年型のRC213Vを見事に乗りこなしています。搭載エンジンやエアロダイナミクスの違いによって、最高速では、他のホンダ機やドゥカティ勢に遅れを取る中、この成績は見事です。

その努力が報われ、翌年以降の複数年契約と最新のRC213Vを勝ち取ることができました。

前戦のテルエルGPでは、金曜〜日曜の午前中を型落ちのマシンながら、支配的な速さを見せつけ、ポールポジションを獲得しましたが、決勝ではグリッド前方に誰もいない不慣れな状況に画面越しにも力んでいるのが伝わり、1周もできずにリタイヤとなってしまいました。リタイヤ後は、本人も相当落ち込んでいたようですが、舞台をバレンシアに移した今回のヨーロッパGPでは、ウェットからドライへと変わる大変難しいコンディションながら、再び予選でフロントローに並びました。

過去、最後に日本人が表彰台に登ったのは、このバレンシアサーキットでベン・スピーズの代役として参戦した中須賀克行が、ウェットで多くのライダーが転倒する中、確実に順位を上げて2位フィニッシュをした2012年に遡ります。

今回も金、土でコンディションがずっとウェットで、日曜日にいきなりドライとなりそうな難しいコンディションとなりそうですが、中上選手もデビューイヤー時、バレンシア悪天候の中、この年最上位の6位フィニッシュをした縁起の良い場所なので、是非とも表彰台をと、期待してしまいます。

 

今回の舞台となる、バレンシアサーキットは、MOTO GPバイクにとって、スロットルを開けていくかいかないかの、絶妙なコーナーがあります。

かつてこのコーナーを支配的なスピードで駆け抜けて行ったのが、RC212Vを駆る、ケーシー・ストーナーでした。

ストーナーは、バレンティーノ・ロッシが勝利出来なかったドゥカティ機で勝利を続けたライダーであり、その乗り方は天才的なものでした。ストーナーの天才的な乗り方は、バレンシアのコーナーを、タイヤがグリップを失う直前まで滑らせて、ドリフトして立ち上がっていくという、リスキーかつ豪快なものでした

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一般的にタイヤというものは、滑りはじめが一番グリップする美味しいところだと言われていますが、その一歩先を踏んでしまった場合はあっという間にハイサイドとなり、軽く見積もっても大怪我です。破綻するかしないかを綱渡りのように綺麗にドリフトしながらレコードラインを走るストーナーは、とんでもないライダーでした。

豪快な走りをする一方、メディア嫌いで家族を大切にし、全盛期の27歳で引退を決めてしまう、少しひ弱な感じも、彼の天才性を際立たせていました。

そんなストーナーが引退した後に、ホンダへやってきたのが、マルク・マルケスです。

肘を擦ることを当たり前にしたマルケスの走り、強さに、人々は改めて驚愕するのですが、マルケスがやってくる前に支配的な走りをしたストーナーマルケス、どちらが速いのかとストーナーの引退後8年経過した今でも、その対決を見たかったと願う人は多いのです。

 

自分が思う「まともでは無い人」は、相手に取ってみれば「自分」だったりする。

民主党バイデン氏と共和党の現職トランプ大統領の世界のメディアを巻き込んだ激戦は、ひとまずバイデン氏に傾きそうである。一方で、ひとまず敗北したトランプ氏は、まだまだ戦う気満々のようである。70を過ぎてもまだ闘志が衰えないのは、この人には賛否両論あるものの、羨ましい。

一方で、日本にとっては、同盟国アメリカの大統領が誰になるかは小さくはない問題である。アメリカの抑止力に頼ることによって、憲法第9条は維持されているのである。一党体制を維持して勢力を拡大したい中国は、日本や台湾にプレッシャーをかけ、香港は力づくで抑え込んでしまった。

アメリカの民主党が掲げる、リベラルな民主主義は最終的な人類の到達点の一つであるとは思う。最終的に壮大な目標を掲げるのは大事なことだと認識するが、一方で、小さくない問題を様々に抱えており、それを解決しなければならない。

その小さくない問題を認識させたのがトランプ政権だっただろう。

世の中には一定数まともでは無い人がいる。いや、これは主観的な見方であり、まともでは無いと言われた人たちはまた自分たちのことを「まともでは無い奴ら」だと思っている。

この、お互いに「まともでは無い」と思っている状態を埋めていかなければ、リベラルな民主主義は実現しない。

例えば、自らの所属するグループの思想を実現させるためなら、死を厭わない人がいる。これは少数派であれば、テロ行為となる。日本では、赤軍派オウム真理教がこれに当たる。一方これを国家ぐるみで行なってしまうと、例えるなら太平洋戦争下の日本のような状態である。

お互いを「まともでは無い」と思っている人が交渉のテーブルについても、まともでは無く終わってしまうことが殆どである。

「まともでは無い」人に自分たちの意見を聞いてもらうには、率直に相手への利益を提供するのが一番手っ取り早い方法ではある。トランプ氏は、その点においては非常に優れていた。金正恩に心を開かせ、イスラエルとアラブ、バーレーンといったイスラム諸国と、国交正常化への道を開いた。そして、「まともでは無い」同士がぶつかった際の最終手段である、戦争にはこの4年内は至らなかった。

まともの仮面をかぶり、世界をなびかせようとする中国にも、米国の半導体技術を使わせないという極めてピンポイントかつクリティカルな手段で、トランプ政権は抑え込んだ。まともでは無い相手とうまくやるためには、多少「まともでは無い」ことをやる必要があると自分は考える。大都会の真ん中でナイフを振り回す輩が現れたら、こちらも覚悟を決めて「まともでは無い」対応をする必要が出てくる。

 

自分が「まともでは無い」と思う人と戦うのは、個人レベルでも国家レベルでもエネルギーを消費する。「まともでは無い」同士、距離を取るのが一番だと思うのだが、なかなかそれも難しいようなのである。「まともでは無い」片方は追い詰められていて、もう片方を敵視しているという実態が殆どだからである。しかし、僕は自分が思う「まともでは無い」人とはしっかり距離を取って、自分のすべきことに集中したいと考えてしまうのだ。

Nine Black Alps

今回は、自分が大学生の時に好きになったバンド「Nine Black Alps」について書いていきたいと思います。

彼らはイギリス出身で、メンバー全員がソニック・ユースエリオット・スミスのフォロワーだったようです。

そしてこのバンドの持つ音像は、グランジオルタナティブロックの中心にいたニルヴァーナと、エリオット・スミスを合わせたような音を持っており、力強くも繊細な曲が多く、フロントマンのサム・フォレストの作曲能力には目を見張るものがありました。

彼らは2005年に1stアルバム「Everything is」を引っ提げてアイランドレコードよりメジャーデビューします。その3〜4年前には、The StrokesThe White StripesThe Vinesといった、新世代のガレージロックバンドに注目が集まっており、Nine Black Alpsにも注目が集まる要素がありました。

そのデビューアルバムを聴いてみると1曲目「Get your guns」は硬質なギターがゴリゴリと響き渡り、力強さを感じさせるものでした。そして、その力強さを保ったまま最後の曲まで突っ走るという、とても完成度の高いアルバムでした。


Nine Black Alps - Everything Is (1/3)

 

特筆するべきは、力強さを持ちつつもアコースティック(エリオット・スミス的要素)の曲を合間に入れており、ギターにディストーションがかかっていなくとも、曲は素晴らしいと感じさせてくれる所でした。

このデビューイヤーでは、「世界制覇を狙えるバンド」といった音楽雑誌の評価があったり、SONIC MANIAで来日公演を果たすなど、新人として充分な評価を得ることができました。

続いて、彼らは2作目に取り掛かり、2007年に、2ndアルバム「Love/Hate」をリリースします。硬質なギターサウンドは前作よりは鳴りを潜めたものの、アコースティック要素が強くなり、各曲に哀愁や深みが増していて個人的には前作を超える出来だと感じました。


Nine Black Alps - Everytime I Turn

しかし、この2ndアルバムはセールス的には相当振るわなかったようで、アイランドレコードからは契約を切られてしまいます。

当時のイギリスはニューレイブ(ざっくり言うとロックをダンスミュージックよりにエレクトロでテンポを早くしたジャンル)全盛期であり、時代に乗らない音を鳴らしていたNine Black Alpsへの注目度はほとんどないに等しかったのです。

しかし、メジャーを切られた後も彼らはライブ、楽曲制作を続けて、2009年秋にインディーズから3rdアルバム「Looked out from the inside」をリリースします。このアルバムはほとんど自主制作のような形でリリースされており、日本でCDを買うことは難しく、未だに買えないような感じだと思います。

自分はNine Black Alpsの公式サイトから音源をダウンロードして手に入れることができました。

このアルバムのジャケットはまるでバットマンの世界のようなもので

アルバムのタイトルもメジャーから切られたこと自分たちを揶揄したようなタイトルだと感じました。

しかし、このアルバムは、メジャーから外れたことにより、好きなように作ろうという彼らの勢いを感じさせる、過去2作よりも素晴らしい作品となっておりました。

このアルバムを端的に表現するのであれば、「ジャケット通りの音が鳴っている」

だと思います。彼らの良さである、ラウドさと哀愁がジャケットの絵の世界を鳴らして、物語を与えているような感じでした。

中でも2曲目の「salt water」3曲目の「Every photograph steals your soul」7曲目の「Fullmoon Summer」ラストの「Ghost in the city」は出色の出来だと思いました。


Salt Water


Every Photograph Steals Your Soul

Nine black alpsはその後もアルバムをリリースし続けており、幸いなことに、4th、5thのアルバムは日本でも購入できます。

しかし、個人的な評価としては、3作目がベストの出来だと思っています。しかしながら、彼らのアルバムの中では、最も知名度が低いのもこのアルバム。。

直近2枚のアルバムの音が自分好みではなかった為、最近は彼らの曲を聴く機会は減っていたのですが、ストリーミングのアプリをApple musicから Amazon musicへと乗り換えたタイミングで、「Looked out from the inside」がストリーミングで聴けるようになっていたのでした!(しかもHD音質で)

90年代のグランジオルタナティブロックが好きな人、エリオット・スミスが好きな人は一聴の価値ありだと思います。

 

ちなみに、Nine black alpsは、ペンギンが主人公の3Dアニメーション映画「Surf's Up」へ楽曲「Pocket full of stars」を提供しており、このアコースティック曲は、映画ファンからも評価が高く、隠れた人気No.1ソングとなっているようです。


Surf's Up soundtrack: Nine Black Alps - Pocket Full Of Stars

 

 

ろっしふみ、がんばって!

Motogpの開幕戦もようやく日程が決まりました。

今年はF1もMotogpも日本GPは中止となってしまい、たいそう残念で仕方がありません。

しかし、この状況の中で開幕してレースが出来ることがある意味では奇跡なのかもしれません。

さて、先日MotoGPのオフィシャルアプリを開くと、とある過去のレースが無料で視聴できるようになっていました。

そのレースとは、1994年の日本GPです。

https://www.motogp.com/ja/video_gallery/2017/05/16/motogp-classics/228123?n=91245

このレースは文字通り伝説のレースとなりました。優勝したのは、スズキを駆る前年の世界王者、ケビン・シュワンツでしたが、

主役はシュワンツではなく、このレースがWGPデビューとなった18歳、阿部典史、後のノリックでした。

ゼッケン56の阿部が駆るマシンは、型落ちのNSR500。ミスタードーナッツが当時売り出していた飲茶の広告がデカデカと載った赤いマシン。

エンジンパワーは型落ちのため、当然ながら最新のエンジンより不足しており、不利です

更に、タイヤは2輪界で最も多くの世界チャンピオンを輩出したライバルも履くミシュランでは無く、ダンロップタイヤ。

 

どう見ても、阿部に有利な状況では無かったのですが、いざレースが始まると、阿部は母国の観客、世界中の視聴者、関係者を熱狂の渦へと巻き込んだのでした。

ポールポジションからスタートしたのはヤマハワークスのルカ•カダローラ、追うのは前年の世界王者シュワンツ、94年〜98年と制覇した後の絶対王者ミック・ドゥーハン

ヤマハ、ホンダ、スズキのワークス勢に混じり、4番手を走っていたのが、型落ちNSRを駆る、阿部でした。

序盤から中盤にかけて、阿部は2.3位を走るシュワンツとドゥーハンの後ろをピタリとつけます。

そして8週目、3位のシュワンツが2位ドゥーハンにヘアピンで仕掛け、その後すぐにドゥーハンがスプーンコーナーで抜き返します。

殿堂入り王者同士の抜きつ抜かれつのバトルを真後ろから見ていた阿部。その周の130Rからシケインへの飛び込み、再びシュワンツがドゥーハンをオーバーテイクしようとした瞬間、更に内側へ入りオーバーテイクしようとする赤いNSRが現れました。

結果、シュワンツが2位、阿部が3位へ。返す刀で阿部はシュワンツのスリップへ入り、1コーナーでシュワンツのインへ飛び込み、完璧なオーバーテイクを披露します。WGP初参戦の18歳が2人の王者をたった2つのブレーキングポイントでかわして行きました!ヘルメット越しになびく長い後ろ髪を置き土産に。

2人の王者をオーバーテイクした後、駆け引きなんて苦手な〜の、とYUIさんばりに全力で先頭のカダローラを追います。そのせいか、高速コーナーでテールスライドし、所々でバランスを崩しています。きっとミシュランタイヤの方が阿部の履くダンロップより性能が良かったことでしょう。しかし、阿部は型落ちのNSRに鞭を入れ、翌周のホームストレートでカダローラの真後ろまで迫り、130Rで大胆にオーバーテイク!ついにトップに躍り出ました。動揺したカダローラは130Rでバランスを崩し、あわや大転倒を引き起こします。

このカダローラの動揺のおかげで、シュワンツ、ドゥーハンはたやすくカダローラをオーバーテイクし、阿部を追います。

駆け引きなく全力で逃げる阿部に、シュワンツとドゥーハンも触発され、必死で追いかけます。無名の1戦のみ参戦の若者が、王者2人を抑えて勝つなどプライドが許さないことでしょう。

シケインの飛び込みでシュワンツがすぐに抜き返します。シュワンツは阿部とドゥーハンを必死に突き放そうとします。

一方、阿部はもうタイヤが見るからに厳しそうです。ダンロップコーナーの出口、テールが流れあわやハイサイド、その隙を突きドゥーハンが2位へ浮上します。

それでも阿部は諦めません。翌周の1コーナーで再びドゥーハンをパス!2位を奪い返します。

この周、ドゥーハンはシュワンツに離されまいと再びバックストレートで阿部を抜き返しますが、阿部はすぐさまシケインで抜きかえすデッドヒートを演じます。

このバトルの最中ジワジワとドゥーハンと阿部を突き放すシュワンツ、ここが勝機と全力で逃げを打ちます。

しかし、シュワンツは周回遅れを交わそうとしたときに、周回遅れに詰まってしまい、築き上げたマージンを失ってしまいました。もう阿部のタイヤはズルズル、あらゆるコーナーでテールが流れようとするのを必死でコントロールしています。もうこのタイミングでオーバーテイクするしか阿部は勝つチャンスが無い。ブレーキを我慢できるだけ我慢し、その周のスプーンコーナー!シュワンツのお株を奪うような見事なオーバーテイクで再び阿部はトップに立ちます。

しかし阿部に逃げる力はもう残っておらず、あっという間にシュワンツに並ばれ、抜き返されます。その後はドゥーハンも阿部を抜きにかかり、阿部は3位に落ちます。更には4位を走る伊藤真一も阿部に対してプレッシャーをかけ続けます。もう阿部も万事休すかと思いきや、阿部はそれでもドゥーハンに挑戦を挑みます。18周目の130Rの先、レイトブレーキで阿部はドゥーハンをまたしてもオーバーテイクしました。見るからにタイヤはズルズルなのに、不死鳥の如くドゥーハンに勝負を挑む阿部。

そして残り3周となった19周目、ホームストレートエンド、1コーナーへの侵入、阿部はもうドゥーハンには抜かれない、シュワンツを追いかける!そんな意思表示を示すかの如くレイトブレーキで進入しますが、次の瞬間!。。。。。。。

砂煙が上がり、NSRと阿部の体は数回転して、あわやガードレールの前でストップしました。もうNSRダンロップタイヤは限界でした。阿部の前に出ようとする気持ちを支えられていなかった。彼のヘルメットのモチーフである星の如く、瞬き、消えてしまった。。。

体の状態が危ぶまれるようなクラッシュでしたが、彼は無事でした。バイザーを上げた阿部のあどけ無い表情がとても印象的でした。

 

こうして阿部の最高峰クラスデビュー戦は終了。1994年WGP日本グランプリで最も観客を沸かせた阿部典史は、ノーポイントで鈴鹿を後にすることとなりました。

レースはシュワンツが優勝、ドゥーハンが2位、母国の伊藤真一が3位に食い込む健闘を見せました。

もし、阿部が伊藤を抑えて3位表彰台に昇っていたら、ドゥーハンを抑えて2位になっていたら。。。

たらればを言えばキリがないですが、たらればを言いたくなるセンセーショナルなレースでした。

しかし、彼が鈴鹿の観客、世界中のWGPの視聴者、更にはレース関係者に与えたインパクトはあまりにも大きかった。

そして、もちろんこのレースは阿部の運命を変えました。かつてシュワンツのライバルとして、何度もシュワンツの前に立ちはだかったヤマハのレジェンド、ウェイン・レイニーがかつてのライバルを本気にさせた阿部の才能に惚れ込みます。翌95年、阿部はヤマハワークスからフル参戦デビュー、翌96年にはこの鈴鹿で若干21歳でぶっちぎりの優勝を決めました。


1996年ロードレースWGP鈴鹿 ノリック

ワールドチャンピオンの期待もありましたが、ドゥーハン、ホンダの最強パッケージの前にそれは叶わぬものの、最高峰クラスでは3勝という成績を残しました。

1994年の阿部の大健闘は、イタリアの片田舎でバイクレーサーを目指す1人の少年の心を大きく動かしました。彼はこのレースの後、この日本グランプリのビデオを毎日観て学校へ登校していました。彼は毎回19周目の1コーナーで再生を止めて学校へ行っていました。彼はその年の夏、ノリックと対面を果たします。この少年は後に、自らサインを貰いに行ったのはノリックだけであると告白しています。

少年の名は、「バレンティーノ・ロッシ」。後の絶対王者、医者が正確に手術をするかのごとく、勝利までのプロセスを重ねる彼はThe Doctorの相性で親しまれています。重ねた勝利数は歴代1位の89勝、WGP最終年とMotoGP初年度を含めた2001〜2005年のワールドチャンピオンであり、41歳を迎えた今も現役で走り続けています。

この「偉大なるチャンピオン」が世界のトップに君臨する過程で、彼の心を支え続けていたのが、18歳の若さで「偉大なるチャンピオンたち」に一歩も引けを取らず真っ向から向かっていったノリックのライディングでした。

ロッシは、WGP参戦当初、自らをロッシふみと名付けて、ノリックのマインドを自らに取り込もうとしました。そのロッシふみの名前は、20年以上後の今でもロッシの愛機YZR-M1の中心付近に貼られています。

ロッシが5年連続のタイトルを決めた後、ロッシとノリックヤマハの企画で対談を行っています。


羅西 Valentino Rossi接受阿部典史訪問 [繁中字幕] interview with Abe

ノリックは、ロッシの偉業、直接対峙した時のスピードを手放しで称賛していました。ノリックは、大いに期待されたデビューレースに比べれば、その後の勝利数3勝は、少し寂しく、ロッシの挙げた功績と比較すれば大きな差ができてしまいました。しかし、対談の中でノリックを見るロッシの目はアイドルを見る少年の目でした。そして、ロッシはノリックへ94年の鈴鹿の話を持ち出すのです。ノリックのおかげでロッシはこの時にノリックのスポンサーだったミスタードーナッツの名前を覚えることができました。

 

この対談から2年後のこと、ノリックはバイク事故(一般公道のUターン禁止箇所でUターンしたトラックに衝突される)によって、32歳で亡くなってしまいました。

ノリックはもうこの世にはいませんが、彼のレースでの勇姿は26年が経過した今でも全く衰えることはありません。純粋無垢にトップへと挑んだノリックの姿勢は多くの人に勇気を与え続けているはず。


In Memory of Norick Abe - MotoGP - Tribute

そんなノリックの勇姿を自らに取り込もうとしたバレンティーノ・ロッシは今年最高峰クラスの21年目、41歳、2年遠ざかっている勝利をもぎ取るために、最後のヤマハワークスライダーとしてのシーズンをスタートします。シーズン開幕は7月17日、スペインのヘレスから。

ろっしふみ、がんばって!

 

 

希望の女神「二階堂ふみ」は蘇る

マン島へ行こうとしていたのに、コロナウイルスの影響でTTレースは中止となり、行けなくなってしまいました。

まぁ僕の場合は生きていれば、また来年があります。(来年ダメなら再来年)その一方で、今を生き延びなければ(文字通り+資金的に)ならない人がたくさんいて、心苦しいばかりです。

ただ、皆が我慢を強いられる苦しい日常の中で、自分の中で「救われているなぁ」と思ったのが、朝ドラの「エール」です。基本、朝ドラはハッピーエンドで終わるので、(一部例外はある)どの作品が今の時世に流れていても、それなりに良いとは思うのですが、この作品は過去作よりも、話としても映像としても力強くあると思いました。(僕はNHK関係者でもN国党を悪く思う者でもないので悪しからず)そして何より、キャスティングが素晴らしいと感じました。

特に言及したいのが、二階堂ふみです。彼女は園子温監督の「ヒミズ」で、ベネチア国際映画祭の最優秀新人賞を受賞しました。「ヒミズ」は、原作の絶望的なラストシーンを希望を感じさせるシーンに変化させることで、賛否両論ありましたが、僕は肯定的に受け止めています。

その理由は、園子温は映画を東日本大震災と結びつけるという、これまた賛否両論が起こる演出を施しました。その結果、震災後のラストシーンを絶望的なものとする訳には行かなかったのです。そして、絶望を希望に引き上げるピースとなったのは、二階堂ふみだったのです。ヒミズでの二階堂ふみは、若々しく、辛い状況にも心折れないポジティブさを持つ女性である茶沢さんを演じます。同じクラスの不思議な少年「住田くん」が気になり、アプローチを続けます。しかし、住田くんは、母親には自分を置いて逃げられ、父親はとんでもないクズ人間(よりによって朝ドラでは音さんの父光石研!)で、自分の尊厳を踏みにじる言葉をかけられた衝動で、住田くんは父親を殺します。

父親殺しを知った茶沢さんは、住田くんに自首をさせ、辛い中でも生きることで、希望への道を歩かせるのです。(原作では絶望した住田くんは自殺する)

そして今回のエールは、まさに茶沢さんが絶望下に置かれた世界を元気付けるために帰ってきたと僕には思いました。

ヒミズの時の初々しさはそのままに、成長したところも見せながら主人公の裕一(ヒミズの住田くんも下の名前は祐一)の灯火消えそうな夢を、力強く支え続けます。

園子温二階堂ふみに託した復興への希望を、奇しくも8年後、思わぬ形で二階堂ふみは再度復興への希望として、蘇りました。

彼女の演技が日本社会復興への灯火として輝き続けることを願うばかりです。


映画「ヒミズ」予告编