常識は疑え

公の面前で大げさに吐露することにしました。

ろっしふみ、がんばって!

Motogpの開幕戦もようやく日程が決まりました。

今年はF1もMotogpも日本GPは中止となってしまい、たいそう残念で仕方がありません。

しかし、この状況の中で開幕してレースが出来ることがある意味では奇跡なのかもしれません。

さて、先日MotoGPのオフィシャルアプリを開くと、とある過去のレースが無料で視聴できるようになっていました。

そのレースとは、1994年の日本GPです。

https://www.motogp.com/ja/video_gallery/2017/05/16/motogp-classics/228123?n=91245

このレースは文字通り伝説のレースとなりました。優勝したのは、スズキを駆る前年の世界王者、ケビン・シュワンツでしたが、

主役はシュワンツではなく、このレースがWGPデビューとなった18歳、阿部典史、後のノリックでした。

ゼッケン56の阿部が駆るマシンは、型落ちのNSR500。ミスタードーナッツが当時売り出していた飲茶の広告がデカデカと載った赤いマシン。

エンジンパワーは型落ちのため、当然ながら最新のエンジンより不足しており、不利です

更に、タイヤは2輪界で最も多くの世界チャンピオンを輩出したライバルも履くミシュランでは無く、ダンロップタイヤ。

 

どう見ても、阿部に有利な状況では無かったのですが、いざレースが始まると、阿部は母国の観客、世界中の視聴者、関係者を熱狂の渦へと巻き込んだのでした。

ポールポジションからスタートしたのはヤマハワークスのルカ•カダローラ、追うのは前年の世界王者シュワンツ、94年〜98年と制覇した後の絶対王者ミック・ドゥーハン

ヤマハ、ホンダ、スズキのワークス勢に混じり、4番手を走っていたのが、型落ちNSRを駆る、阿部でした。

序盤から中盤にかけて、阿部は2.3位を走るシュワンツとドゥーハンの後ろをピタリとつけます。

そして8週目、3位のシュワンツが2位ドゥーハンにヘアピンで仕掛け、その後すぐにドゥーハンがスプーンコーナーで抜き返します。

殿堂入り王者同士の抜きつ抜かれつのバトルを真後ろから見ていた阿部。その周の130Rからシケインへの飛び込み、再びシュワンツがドゥーハンをオーバーテイクしようとした瞬間、更に内側へ入りオーバーテイクしようとする赤いNSRが現れました。

結果、シュワンツが2位、阿部が3位へ。返す刀で阿部はシュワンツのスリップへ入り、1コーナーでシュワンツのインへ飛び込み、完璧なオーバーテイクを披露します。WGP初参戦の18歳が2人の王者をたった2つのブレーキングポイントでかわして行きました!ヘルメット越しになびく長い後ろ髪を置き土産に。

2人の王者をオーバーテイクした後、駆け引きなんて苦手な〜の、とYUIさんばりに全力で先頭のカダローラを追います。そのせいか、高速コーナーでテールスライドし、所々でバランスを崩しています。きっとミシュランタイヤの方が阿部の履くダンロップより性能が良かったことでしょう。しかし、阿部は型落ちのNSRに鞭を入れ、翌周のホームストレートでカダローラの真後ろまで迫り、130Rで大胆にオーバーテイク!ついにトップに躍り出ました。動揺したカダローラは130Rでバランスを崩し、あわや大転倒を引き起こします。

このカダローラの動揺のおかげで、シュワンツ、ドゥーハンはたやすくカダローラをオーバーテイクし、阿部を追います。

駆け引きなく全力で逃げる阿部に、シュワンツとドゥーハンも触発され、必死で追いかけます。無名の1戦のみ参戦の若者が、王者2人を抑えて勝つなどプライドが許さないことでしょう。

シケインの飛び込みでシュワンツがすぐに抜き返します。シュワンツは阿部とドゥーハンを必死に突き放そうとします。

一方、阿部はもうタイヤが見るからに厳しそうです。ダンロップコーナーの出口、テールが流れあわやハイサイド、その隙を突きドゥーハンが2位へ浮上します。

それでも阿部は諦めません。翌周の1コーナーで再びドゥーハンをパス!2位を奪い返します。

この周、ドゥーハンはシュワンツに離されまいと再びバックストレートで阿部を抜き返しますが、阿部はすぐさまシケインで抜きかえすデッドヒートを演じます。

このバトルの最中ジワジワとドゥーハンと阿部を突き放すシュワンツ、ここが勝機と全力で逃げを打ちます。

しかし、シュワンツは周回遅れを交わそうとしたときに、周回遅れに詰まってしまい、築き上げたマージンを失ってしまいました。もう阿部のタイヤはズルズル、あらゆるコーナーでテールが流れようとするのを必死でコントロールしています。もうこのタイミングでオーバーテイクするしか阿部は勝つチャンスが無い。ブレーキを我慢できるだけ我慢し、その周のスプーンコーナー!シュワンツのお株を奪うような見事なオーバーテイクで再び阿部はトップに立ちます。

しかし阿部に逃げる力はもう残っておらず、あっという間にシュワンツに並ばれ、抜き返されます。その後はドゥーハンも阿部を抜きにかかり、阿部は3位に落ちます。更には4位を走る伊藤真一も阿部に対してプレッシャーをかけ続けます。もう阿部も万事休すかと思いきや、阿部はそれでもドゥーハンに挑戦を挑みます。18周目の130Rの先、レイトブレーキで阿部はドゥーハンをまたしてもオーバーテイクしました。見るからにタイヤはズルズルなのに、不死鳥の如くドゥーハンに勝負を挑む阿部。

そして残り3周となった19周目、ホームストレートエンド、1コーナーへの侵入、阿部はもうドゥーハンには抜かれない、シュワンツを追いかける!そんな意思表示を示すかの如くレイトブレーキで進入しますが、次の瞬間!。。。。。。。

砂煙が上がり、NSRと阿部の体は数回転して、あわやガードレールの前でストップしました。もうNSRダンロップタイヤは限界でした。阿部の前に出ようとする気持ちを支えられていなかった。彼のヘルメットのモチーフである星の如く、瞬き、消えてしまった。。。

体の状態が危ぶまれるようなクラッシュでしたが、彼は無事でした。バイザーを上げた阿部のあどけ無い表情がとても印象的でした。

 

こうして阿部の最高峰クラスデビュー戦は終了。1994年WGP日本グランプリで最も観客を沸かせた阿部典史は、ノーポイントで鈴鹿を後にすることとなりました。

レースはシュワンツが優勝、ドゥーハンが2位、母国の伊藤真一が3位に食い込む健闘を見せました。

もし、阿部が伊藤を抑えて3位表彰台に昇っていたら、ドゥーハンを抑えて2位になっていたら。。。

たらればを言えばキリがないですが、たらればを言いたくなるセンセーショナルなレースでした。

しかし、彼が鈴鹿の観客、世界中のWGPの視聴者、更にはレース関係者に与えたインパクトはあまりにも大きかった。

そして、もちろんこのレースは阿部の運命を変えました。かつてシュワンツのライバルとして、何度もシュワンツの前に立ちはだかったヤマハのレジェンド、ウェイン・レイニーがかつてのライバルを本気にさせた阿部の才能に惚れ込みます。翌95年、阿部はヤマハワークスからフル参戦デビュー、翌96年にはこの鈴鹿で若干21歳でぶっちぎりの優勝を決めました。


1996年ロードレースWGP鈴鹿 ノリック

ワールドチャンピオンの期待もありましたが、ドゥーハン、ホンダの最強パッケージの前にそれは叶わぬものの、最高峰クラスでは3勝という成績を残しました。

1994年の阿部の大健闘は、イタリアの片田舎でバイクレーサーを目指す1人の少年の心を大きく動かしました。彼はこのレースの後、この日本グランプリのビデオを毎日観て学校へ登校していました。彼は毎回19周目の1コーナーで再生を止めて学校へ行っていました。彼はその年の夏、ノリックと対面を果たします。この少年は後に、自らサインを貰いに行ったのはノリックだけであると告白しています。

少年の名は、「バレンティーノ・ロッシ」。後の絶対王者、医者が正確に手術をするかのごとく、勝利までのプロセスを重ねる彼はThe Doctorの相性で親しまれています。重ねた勝利数は歴代1位の89勝、WGP最終年とMotoGP初年度を含めた2001〜2005年のワールドチャンピオンであり、41歳を迎えた今も現役で走り続けています。

この「偉大なるチャンピオン」が世界のトップに君臨する過程で、彼の心を支え続けていたのが、18歳の若さで「偉大なるチャンピオンたち」に一歩も引けを取らず真っ向から向かっていったノリックのライディングでした。

ロッシは、WGP参戦当初、自らをロッシふみと名付けて、ノリックのマインドを自らに取り込もうとしました。そのロッシふみの名前は、20年以上後の今でもロッシの愛機YZR-M1の中心付近に貼られています。

ロッシが5年連続のタイトルを決めた後、ロッシとノリックヤマハの企画で対談を行っています。


羅西 Valentino Rossi接受阿部典史訪問 [繁中字幕] interview with Abe

ノリックは、ロッシの偉業、直接対峙した時のスピードを手放しで称賛していました。ノリックは、大いに期待されたデビューレースに比べれば、その後の勝利数3勝は、少し寂しく、ロッシの挙げた功績と比較すれば大きな差ができてしまいました。しかし、対談の中でノリックを見るロッシの目はアイドルを見る少年の目でした。そして、ロッシはノリックへ94年の鈴鹿の話を持ち出すのです。ノリックのおかげでロッシはこの時にノリックのスポンサーだったミスタードーナッツの名前を覚えることができました。

 

この対談から2年後のこと、ノリックはバイク事故(一般公道のUターン禁止箇所でUターンしたトラックに衝突される)によって、32歳で亡くなってしまいました。

ノリックはもうこの世にはいませんが、彼のレースでの勇姿は26年が経過した今でも全く衰えることはありません。純粋無垢にトップへと挑んだノリックの姿勢は多くの人に勇気を与え続けているはず。


In Memory of Norick Abe - MotoGP - Tribute

そんなノリックの勇姿を自らに取り込もうとしたバレンティーノ・ロッシは今年最高峰クラスの21年目、41歳、2年遠ざかっている勝利をもぎ取るために、最後のヤマハワークスライダーとしてのシーズンをスタートします。シーズン開幕は7月17日、スペインのヘレスから。

ろっしふみ、がんばって!