常識は疑え

公の面前で大げさに吐露することにしました。

アイルトン・セナとホンダとエイドリアン・ニューウェイ 27年間を繋いだ物

今年もあの日がやって来た。GWの中にあるものの、どこか悲しくなる5月1日。アイルトン・セナの命日である。

あの年、1994年のサンマリノGPは異様な雰囲気だったと誰もが口を揃えて言っている。金曜日(4/29)にはセナと同郷のルーベンス・バリチェロが大クラッシュし、鼻の骨を折る骨折。土曜日(4/30)には、新興チームのシムテックのドライバーで、セナの友人でもあったローランド・ラッツェンバーガーが脱落したフロントウイングにタイヤが挟まり、制御不能のまま高速域でクラッシュし、そのまま還らぬ人となった。日頃からモータースポーツの安全性に最も高い関心を示し、仲間がクラッシュした時には、マシンをその場に止めて救出に向かうような人であるセナは、身近な人を襲う不幸に、酷く心を痛めたことは想像に難くない。


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一方、その同時期、セナが乗るマシンであるウィリアムズFW16のチーフデザイナーを務めていたエイドリアン・ニューウェイも大きなストレスを抱えていた。自分のデザインしたマシンが速く走らないのだ。あのセナを持ってしても。

1992、1993年とニューウェイがデザインしたウィリアムズのF1マシンは地上とフロアの空間を、先進技術であるアクティブサスペンションが、加減速でマシンが必要以上に沈み込んでフロアの空間が理想的な状態から外れてしまうことを制御することで、安定して高いダウンフォースを叩き出し、2年連続でコンストラクター、ドライバーズチャンピオンに輝いた。しかし、アクティブサスペンションによって、速度レンジが高くなり、死亡事故を誘発してしまうのではないかと危惧したFIA国際自動車連盟)は規則によって、1994年からアクティブサスペンションを禁止したのだ。それでも、上手くいっている時はコンセプトを大きく変更しないニューウェイは、アクティブサスペンションの恩恵を低く見積り過ぎて、大きく手を加えなかった。このニューウェイがデザインしたFW16に1994年から新しく乗るドライバーが、前年までマクラーレンチームに所属したアイルトン・セナであった。セナはマクラーレンとホンダエンジンのパッケージで、1988年、1990年、1991年と3回のワールドチャンピオンに輝いた。しかし、1992年、前述のニューウェイのアクティブサスペンションを搭載した、ウィリアムズFW14Bによって、セナとホンダエンジンは勢いを削がれ、3連覇を逃すばかりか、バブル崩壊の余波で経営状況も悪くなっていたホンダをF1撤退に追い込んだ。

翌1993年、ホンダエンジンを失ったセナは、卓越したドライビングテクニックを武器に、ウィリアムズ勢に一矢報い、5勝を挙げたものの、熟成を遂げたウィリアムズのアクティブサスペンションに成す術はなかった。このままではワールドチャンピオンに返り咲けないことを悟ったセナは、常勝チームとなったウィリアムズへの移籍を決めたのだ。

迎えた1994年、FW16のシェイクダウン、FW16は酷くピーキーなマシンであることを露呈した。パッシブサスペンションに戻ったことで、車高が変化したタイミングでのダウンフォースの損失が顕著となり、セナを持ってしても上手く操ることが出来なかったのだ。

それでも、シーズン開幕してからは、誰よりも感覚に優れていたセナはサンマリノグランプリまで、予選1位であるポールポジションの座を誰にも明け渡さなかった。レースディスタンスである300km全周を最速で走れなくても、1周の速さで競う予選であれば、ツボを押さえて最速に導くことがセナには出来た。それでも決勝になると、刻々と変化する路面状況やタイヤの状況に手を焼いたか、セナは開幕2戦をスピンとクラッシュでリタイヤしていた。このセナがリタイヤした2戦で勝利したのは、ミハエル・シューマッハ。彼もまた皇帝と呼ばれ、この1994年から10年以上トップドライバーとしてF1に君臨するようになる。

場所をサンマリノに戻す。ニューウェイは、自分のデザインしたマシンのピーキーさの原因を発見し、解決方法を導いた。しかし、それが実戦投入されるのは部品を設計、製造するためのタイムラグが生じるため、もう少し後になる。ニューウェイはセナに解決方法と、解決方法が搭載されたBスペックの投入時期を話し、セナに納得してもらった。しかし、マシンはもう一つの問題を抱えていた。ニューウェイは、空力的に最適な形状を導き出すため、コックピットを狭くデザインするデザイナーだった。しかし、ニューウェイはこの年、ウィリアムズに移籍したセナのコックピットの好みを把握しきれていなかった。セナにとってはステアリング位置が高過ぎて操作しづらかったのだ。ニューウェイはセナの要望に応えるために、ステアリングコラムの改修を部下に指示した。それによって、サンマリノではセナの要望に応えたステアリング位置になっていた。しかし、この改修が強度計算を行わず、突貫工事的な改修となっていたことがのちに明らかになる。

予選日の翌日、5月1日の決勝日、悲劇はあったものの、レースは予定通り開催されることとなった。のちの関係者の証言では、この時セナは相当ナーバスになっていたとされ、決勝直前には、お互いをクラッシュに追い込むまで加熱したライバル関係であった、当時の最多勝ドライバーで、前年に引退したアラン・プロストに対し無線で「アラン、君がいなくて寂しいよ」と呼びかけている。


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フォトグラファーの熱田護さんは、自身の写真集で、サンマリノのスタート直前のセナの写真を公開した。セナはいつになく固い表情でコックピットに佇み、前を見ていたそうだ。その後、ふとセナとレンズ越しに目があったが、30秒も視線が合い続けたことで、思わずカメラを下に下ろしたそう。それでも目が会い続け、熱田さんはセナに笑顔を送ると、セナは微笑んでくれた。この時撮られたセナの写真は、セナらしい、逞しく真っ直ぐな目をしており、目の下に刻まれた深いシワは彼の優しさを表しているように思えた。

サンマリノGPはこの日も波乱含みだった。決勝スタート後、ストールして止まっているマシンに、後続から全開で加速するマシンが突っ込んだことにより、観客席まで破片が飛び散り、観客は怪我を負う事態に。この影響で、レースは再スタートへ。1位はセナ、2位はシューマッハ。まだ改修されていないピーキーなマシンでセナは、3連勝を目指すシューマッハに必死で逃げを打つ。迎えた7周目、モニターの映像はシューマッハオンボード映像、シューマッハの視線で捉えられるアイルトン・セナに変わる。セナは高速のタンブレロコーナーを曲がっているが、急に壁に吸い寄せられるようにベクトルが変わる。シューマッハオンボードからフェードアウト。そのままタンブレロの外の壁に減速する間もなくクラッシュ(セナはそれでもコントロールを失った直後の僅かな時間でマシンを大きく減速させていたことが、のちのデータロガーで明らかになっている。)クラッシュ後、一瞬動いた後、動かなくなったブラジルカラーのヘルメット。すぐに救急隊が到着し、ヘリコプターで病院にセナは送られたものの、死亡が確認される。

このセナの死はまさに世界中に衝撃を与えた。当時F1を中継していたフジテレビは、実況を担当していた三宅アナウンサーも解説者の2人もカメラが回っているにも関わらず泣いていた。   


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極東と南米から、遠いヨーロッパに乗りこんで共に戦ったセナとホンダは、日本でも深い共感を呼び、セナはヒーローとして崇められた。(最近では、その当時に生まれた子供の名前がセナである事例も多い。)

セナの母国ブラジルでは、国葬が取り行われ、国民は3日間喪に服した。当時のニュース映像にも自分の事のように取り乱すブラジルの人々が写し出されている。


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一方で、サッカーのブラジル代表は、「共に国民のために4度目の世界王者になろう」と生前のセナに発破をかけられていたことから、奮起して1994年のW杯で、24年振りの優勝を果たすことになる。優勝した後にピッチ上でメンバーが取り出した横断幕「セナ、僕らは君と共に加速してきた。4回目の優勝は僕らと君のものだ」はあまりにも有名だ。

セナのマシンをデザインしたニューウェイは、セナが文字通り命を賭して走る必要のあったピーキーなマシンを設計したことに自責の念を抱いていると自書で明かしている。セナ無き後、FW16を改修して戦える状態に戻したウィリアムズ(ニューウェイ)は、セカンドドライバーのデイモン・ヒルシューマッハを後一歩のところまで追い詰め、コンストラクターズチャンピオンを奪還することに成功した。その後も、ニューウェイの携わるマシンは、1996、1997、1998、1999、2010、2011、2012、2013と8回も世界チャンピオンを獲得する偉業を成し遂げた。しかし、ニューウェイは未だにセナの事故について話す時、声の震えを抑えるのに苦労すると話す。それほどセナは偉大な存在だった。

一方、時は2021年、運命とは面白いと感じる。かつてセナと共闘して好成績を収めたホンダが、2021年でF1を撤退する。今はパワーユニットと呼ばれることの方が多いF1のエンジンだが、紛れもなくパワーユニットもエンジンの1種である。ホンダはこれまでも撤退、復帰を繰り返してきたが、今後は2040年までに市販全車種を電動化させる目標に対応させるために、F1のリソースも含めて全勢力を注いでいくという。おそらく、ホンダエンジンとしては、最後のシーズンとなる。そのホンダエンジンを搭載するレッドブルのマシン設計のディレクターが、エイドリアン・ニューウェイである。


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2015年にかつてのパートナー、マクラーレンとタッグを組んでF1に復帰したホンダだったが、成績は散々で、マクラーレンの首脳、ドライバーからはチーム低迷の元凶とされ、2017年には契約を残したまま切られるという、悪夢のような時間を過ごしてきた。しかしその後、レッドブル傘下のトロロッソに2018年からエンジンを供給することが決まり、そこでしっかりと性能を改善したホンダは、2019年、ニューウェイの所属するレッドブルにもエンジンを供給することになる。レッドブルで2010〜2013年と4連覇を果たしたものの、近年は勝てる体制に無く、ニューウェイもそれを不満に第一線を退いていたのだが、ホンダエンジンの搭載に勝てるチャンスを見出し、第一線に復帰した。2019年にはホンダエンジン復帰後初優勝を含む3勝、2020年も3勝をして、常勝チームであるメルセデスとの差を少しずつ埋めてきた。そして2021年はメルセデスを凌駕する最速のマシンを開発してきた。ニューウェイがタイトルを取れなくなった2014年以降、毎年タイトルを獲得するメルセデスに満を持して勝負を挑む。

もし、今年レッドブル・ホンダがタイトルを獲得できるようなら、それはホンダにとっては1991年のアイルトン・セナ以来となる。つまり、エイドリアン・ニューウェイが優勝請負人として台頭する前まで遡るのだ。アイルトン・セナエイドリアン・ニューウェイとホンダ。2021年は縺れた運命の糸が解きほぐされるのだろうか。


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コーナリング中もスロットルを断続的に開け続けることで次の加速に生かしていたとされる「セナ足」


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ピーキーなFW16を必死で操ってシューマッハを破り岡山で64回目のPPを獲得。