常識は疑え

公の面前で大げさに吐露することにしました。

失敗を評価する社会〜資本主義社会はリスクを取った者が勝つ

フジロックを挟んだ為、少し前の記事になるのですが、損失回避性が現代社会の若者の心をコントロールしている可能性を書きました。

そこで私は失敗した事を正しく評価する社会に移行するべきだと思ったのです。

 

何か新しいことにチャレンジして失敗したら叱られたり、叩かれてしまうのは損失回避性を増強してしまうと考えます。 

 自分の例を申せば、高校の時にバイトしたり、バイクの免許を取りたいと親に言ったのですが、危険だとか、学生の本分は勉強だ(間違っちゃいないけれど)とか言われて反対されました。

僕は人は若いうちからリスクコントロールの勉強をするべきなんだと思います。長期的に見れば、過保護に子供を育てた方が、子供は親の介護をしなくなるんじゃないだろうかと思います。親を引っ張っていけないでしょうから。

親は保護者では無く、適度な挑戦を与える者になる必要があると思うのです。

初めて自転車に乗れたり、逆上がりが出来た時の喜び(フロー現象を定理した心理学者 ミハイ・チクセントミハイの言葉を借りれば複雑化した自己)のような事を自立するまで与え続けるのが、親ないし学校の使命だと思います。目の前にワクワクする挑戦事がゴロゴロ転がっていれば、非行に走らないだろうし、イジメによって他者を抑圧しないだろうし、引きこもることも少なくなると思います。最も大人が常に新しい挑戦事に挑んでいる感じは乏しいですが。

アメリカのシリコンバレーでは、1度の企業失敗は勉強と見なされるのだそうです。

リスクを追って挑戦する事は素晴らしい事です。それが個々に行き渡る考え方、システム、教育を私は作りたいです。

 

人間の損失回避性から、上の世代から最近の若者は!と言われる理由を探る。

人間には、損失回避性というデフォルトの習性が存在している。

 

簡単に言うと、100円失うことの痛みは200円得ないと回復出来ないということだそうだ。

その現象は、そのまま戦後の日本人に当てはまるのではないかと自分は思っている。

 

まず、戦後は皆モノが無くなり、失うモノが文字通り無かった。もちろん順調な経済成長が出来たのはそれだけが原因ではないだろうが、

『失うモノは何も無い』

が原動力になったと思われる。

そして高度経済成長が終わると、オイルショックなどの一時的な混乱はあったものの、安定した成長に入り、プラザ合意を経て、そこから悪名高いバブル景気に突入した。

バブル時期、多くの人間が財テクを駆使して、リスクなど遠い国の物と信じて積極的な投資を実施した。

しかしバブル期に多く取引された土地というものは、値段が高くなってもその土地の価値が目に見えて増えたわけではない。バブル景気には実態が無かったので崩壊するのもあっという間だった。

その後日本は失われた10年という時代に突入する。

今を生きる多くの20代は、この時期を過ごしている。ある程度システムやプロダクトが揃った世界で、景気は上向かなかった。

昔から損失回避性が強いひとはある程度いたのだろうが、丁度この時期から損失回避性が強い人が増えてきたのでは無いのだろうか。(自分もそうなのかな)

年長者との価値観の違いはそこにあるのでは無いだろうか。

かつての経済成長期を作ってきた働き方では損失回避世代を動かせないのではないだろうか。と自分は考えている。

損失回避性を回避できるチャレンジングな教育〜働き方を提唱しなければ、日本は守りに入る傾向が益々強まるだろう。

自分が損失回避性を打ち消すためのシステム。それは

『失敗を正しく評価する』こと

だと思う。

また失敗を正しく評価することについては詳しく話したいと思っている。