常識は疑え

公の面前で大げさに吐露することにしました。

自分が思う「まともでは無い人」は、相手に取ってみれば「自分」だったりする。

民主党バイデン氏と共和党の現職トランプ大統領の世界のメディアを巻き込んだ激戦は、ひとまずバイデン氏に傾きそうである。一方で、ひとまず敗北したトランプ氏は、まだまだ戦う気満々のようである。70を過ぎてもまだ闘志が衰えないのは、この人には賛否両論あるものの、羨ましい。

一方で、日本にとっては、同盟国アメリカの大統領が誰になるかは小さくはない問題である。アメリカの抑止力に頼ることによって、憲法第9条は維持されているのである。一党体制を維持して勢力を拡大したい中国は、日本や台湾にプレッシャーをかけ、香港は力づくで抑え込んでしまった。

アメリカの民主党が掲げる、リベラルな民主主義は最終的な人類の到達点の一つであるとは思う。最終的に壮大な目標を掲げるのは大事なことだと認識するが、一方で、小さくない問題を様々に抱えており、それを解決しなければならない。

その小さくない問題を認識させたのがトランプ政権だっただろう。

世の中には一定数まともでは無い人がいる。いや、これは主観的な見方であり、まともでは無いと言われた人たちはまた自分たちのことを「まともでは無い奴ら」だと思っている。

この、お互いに「まともでは無い」と思っている状態を埋めていかなければ、リベラルな民主主義は実現しない。

例えば、自らの所属するグループの思想を実現させるためなら、死を厭わない人がいる。これは少数派であれば、テロ行為となる。日本では、赤軍派オウム真理教がこれに当たる。一方これを国家ぐるみで行なってしまうと、例えるなら太平洋戦争下の日本のような状態である。

お互いを「まともでは無い」と思っている人が交渉のテーブルについても、まともでは無く終わってしまうことが殆どである。

「まともでは無い」人に自分たちの意見を聞いてもらうには、率直に相手への利益を提供するのが一番手っ取り早い方法ではある。トランプ氏は、その点においては非常に優れていた。金正恩に心を開かせ、イスラエルとアラブ、バーレーンといったイスラム諸国と、国交正常化への道を開いた。そして、「まともでは無い」同士がぶつかった際の最終手段である、戦争にはこの4年内は至らなかった。

まともの仮面をかぶり、世界をなびかせようとする中国にも、米国の半導体技術を使わせないという極めてピンポイントかつクリティカルな手段で、トランプ政権は抑え込んだ。まともでは無い相手とうまくやるためには、多少「まともでは無い」ことをやる必要があると自分は考える。大都会の真ん中でナイフを振り回す輩が現れたら、こちらも覚悟を決めて「まともでは無い」対応をする必要が出てくる。

 

自分が「まともでは無い」と思う人と戦うのは、個人レベルでも国家レベルでもエネルギーを消費する。「まともでは無い」同士、距離を取るのが一番だと思うのだが、なかなかそれも難しいようなのである。「まともでは無い」片方は追い詰められていて、もう片方を敵視しているという実態が殆どだからである。しかし、僕は自分が思う「まともでは無い」人とはしっかり距離を取って、自分のすべきことに集中したいと考えてしまうのだ。